「死ぬ覚悟した」〜福島原発の元運転員、初証言
配信日:2013年8月12日
ゲスト:井戸川隆太さん(元福島第一原発発電所2号機の運転員) 聞き手:木野龍逸(ライター)
東京電力福島第一原子力発電所事故当時、中央制御室(中央操作室=ちゅうそう)で事故対応にあたっていた元運転員(オペレーター)が事故当時の状況を語った。運転員としては初の証言となる。
今回インタビューに応えたのは、事故当時、福島第一原発発電所2号機の運転員だった井戸川隆太さん27歳。井戸川さんは双葉町出身で、中学卒業後に東京電力が運営する東電学園(東京)に入学。電気に関する専門知識を学び、18歳で地元・福島第一原子力発電所に配属された。以降、原子炉を運転する現場で下積みを重ね、25歳のときに運転員試験に合格。2号機の運転員(オペレーター)を担ってきた。
2011年3月11日は非番だったが、地震発生後すぐに、自宅から発電所に急行。津波が押し寄せていたため、しばらく重要免震棟で待機していたが、午後5時すぎに2号機の中央制御室に向かう。中央制御室は電気もなく真っ暗で、冷却のための注水ができないまま、室内の線量は徐々に高くなっていったという。
中央制御室は1号機と2号機の間にあり、同じ場所を共有している。11日の夜中にかけて、1号機側の線量が高くなってきたため、1号機の運転員らも2号機側に避難しながら、パラメーターを確認する時だけ、一瞬、1号機側に移動するという状況だった。井戸川さんは、11日の段階で、メルトダウンしているだろうと考えていたという。
井戸川さんは内部被ばく量を過少に評価されたと告発する。2011年4月に内部被ばく量を計測したにも関わらず、個人の公式記録に残すデータは、すでにヨウ素被曝の影響がなくなっていた7月のデータが採用されたという。東京電力が認めた井戸川さんの被曝線量は85ミリシーベルトだ。
井戸川さんは2012年1月に東京電力を退社した。会社の上層部の考え方についていけなかったためだという。政府による事故収束宣言が直接の引き金となった。1号機爆発、重要免震棟への退避、そして、東京電力を辞める決断をするまで、その一部始終を語った。